私は・小さい頃から・婆ちゃんが大好きで大好きで
・いつも婆ちゃんのお家に行くのが楽しみでならなかった。
婆ちゃんはいつも・にこにこ優しく向かいいれてくれ、いつも・甘いカルピスのミルク寒天を
作ってくれたり・豆餅を手つくりしてくれたり・編み物を教えてくれたり
・裁縫を教えてくれた初めての人だった。
婆ちゃんの家は昔・五右衛門風呂だった・だから泊りに行った日は・薪をくべて火をつけることが
すごく楽しくって・ 五右衛門風呂の底蓋をそーーっと沈めて・爺ちゃんと一緒にお風呂に入った・
婆ちゃんは・ほんとうに優しい人で・子供たちが沢山くるのを喜んで迎えてくれた・。
ある日・そんな優しい婆ちゃんを怒らせたことがあった・
婆ちゃんが用意してくれた・ふりかけごはんを「いやだ~~!!」っていって・
それでも婆ちゃんはまた・おむすびを作ってくれたのに。「いやだーーーー!!!」ってまた言った・
そして、婆ちゃんは・・・・卵かけごはんなら食べるだろうと思い・またも用意してくれた。
それなのに・「いやだ~~~~!!!」って・言った私(5歳くらいだったか・)
さすがの婆ちゃんも怒って・私を玄関から外へ出して・入ってくるな!!!と怒った。
私は。大泣き・外でずっと泣いていたけど・ その後・無言で玄関を開けてくれた・
それから・・・・その時以来(卵かけごはん)が食べれなくなった。のである。
今思えば・ほんとうにわがままな私をいつもいつも・やさしく対応してくれていた・。
あとにも先にも・婆ちゃんが怒った姿をこれ以来見てない・・・・・・
私が・20才妊娠して、周りや・家族から反対され、、、悩んで・葛藤し、泣いていた。妊婦初期。
そんなとき 婆ちゃんが「子供は宝じゃけえ・産みんさい」と言ってくれた。
その言葉が・私をすごく支えてくれて、勇気つけてくれた。
今でもずっと忘れない・言葉・。
宮古島に移住しても・・・婆ちゃんとの文通のやり取りに癒された・
いっつも・毎年毎年・ 編み物のセーーーターを送ってくれて、子供たちにと・
いっぱい沢山の愛の詰まった贈り物を送ってくれた。その贈り物は、いつも変わらない
婆ちゃん家の空気を運んでくれて、小さいころから大好きだった・
ばあちゃんの家の古い時計の音まで聞こえてくるようだった。
何年かたって、毎年来てた・だんだん手紙もこなくなって、
久々の手紙がすごく切ない話がつずられていた。胸が苦しくなった。
そして・今広島の実家で婆ちゃんと暮らしている。
私の子供たちにとっては・ヒイ婆ちゃん・ 今年90歳・
久々の婆ちゃんは・耳が遠くなっていてた。
毎日・同じ話を毎日聞いているのだけども・
婆ちゃんは話したいんだろうと・うんうんと聞いている。
婆ちゃんは、毎日・毎日・みんなのために編み物をして
みんなの穴あきの服をつくろってくれている。
今日は、婆ちゃんの歴史をじっくり聞いた日。婆ちゃんの生きた道。
「婆ちゃんの歴史」
ここに記す。
宇川豊子
大正14年 二月一日 (出生書はこの日に出されたらしく、
いつ生まれたかは、婆ちゃんの母さんが忘れたらしい)
広島「こい」にて
母 フチ‘江 父 忠男 の元に生まれる・
(ヒイ婆ちゃんとヒイ爺ちゃんは・学校の先生で恋に落ちて・両親の反対にあい・駆け落ちしたらしい)
四人姉妹三番目
あやこ・ のぶこ・ とよこ ・ちずこ
幼少時代は・安芸太田町・北広島町で過ごす。
16歳の時に父親が満州へ
16歳から~18歳まで広島市内の洋裁学校で洋裁・和裁を勉強・
19歳~ 東洋工業にて、軍事用の鉄砲を作る仕事をしていた。
20才 ろく膜・結核になり・広島市内から、北広島町へ休養しに帰った。
その8月6日・ 大朝にて、原爆を見た。
多くの焼けただれた人たちが、歩いて市内から、一日かけて実家に帰ろうと大朝にたどり着いた
が・その数日後みんな死んでいった。
その後・父忠男さんが。満州にて戦死。
終戦。
24歳~~お見合いをして・
お爺ちゃん 等さんに出会う・
8月25日自宅にて結婚式・
25歳~~5月22日長女かおり生まれる・(私の母)
27歳~~5月13日長男たつや生まれる・
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その後は覚えてない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
って。
今に至る・
今日。夕方、晩御飯を作って、
みんなで食べてる途中に婆ちゃんが涙をぽろぽろ流しながら、
「私はもう明日、帰るから、元気でおりんさいよ。 」
「長生きをしていたら、みんなに迷惑をかけるからね
もう、長く生きたから、もう十分だよ」
涙ながしながら婆ちゃんがいた・。
私も涙を流しながら、ご飯を食べた。 母さんも涙を流しながらごはんを食べた。
爺ちゃんも泣きながらご飯を食べて、 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::
無言でみんなで泣いた。
今の婆ちゃんの状況がいろいろめぐってくる。
年をとること、死を意識すること、 介護、 身体、いろんなことがリアルに
今ここにある。
いろんな友達が原爆で死に、 父親も戦争で亡くなって、
どんどん、兄弟も 近所の人も死んでいく、、、、、、どんな気持ちなんだろうか。
いろんな気持ちが切なくって、 涙で、 ご飯がのどを通らなかった。し・
みんなで泣きながらご飯を食べたことが、なんだか、神聖な時間だった。
死ぬってことを毎日話す、こと、。
死が隣りあわせだって事実と、、
毎日毎日この何分かに、世界中で生まれてくる子供たち。
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いろんなリアルがあって、
だれでも、いつか、死ぬってことを受け入れる。
婆ちゃんは、私の中で、本当に神様に近い存在で、仏のような人だ。
そんな婆ちゃんの涙が、切なくって、
また改めて、一日
一日を大切に大切につむぎたい。
******
18歳から、実家を離れて、12年ぶりの同居。(居候)
車いすの父、母さん、婆ちゃん、こどもたち、との生活。
正直、楽しい事ばかりじゃなかった。
昨年は、逃げたい気持ちの方が多くをしめた、
でも、
わがままばかりの私を、文句言いながら、優しく迎えてくれた、父と母に感謝する。
世間からは、変わり者で、とっぴようしもない私は、家族の恥かもしれない。
どうにも、行き場がなくて、どこにも、自分の居場所がなくなって、
勝手に、孤独になって、いった。
家族の前では、へらへらしていた、中立の末っ子を演じたのである。
でももう、何年も毎日ずっと一人で、泣いている。悲しい、嬉しい、ありがたい、やるせない、いろん
な気持ちの涙がほとほとと流れる。
今日、婆ちゃんの涙から、
何かが、何かが、ひらいて、
両親の前で泣いた。おいおい泣いた。。
両親も泣いた。みんなで泣いた。
ありがたい涙だった。切ないけど、愛おしい涙だった。
それがすごくうれしかった。
「子供は宝じゃけえ」
その言葉を一生わすれない。
毎日、私の子供たちを優しく見守ってくれる、婆ちゃん。。。。
私の歌を、真剣に聞いてくれた、婆ちゃん、。。。
こころから、その婆ちゃんが生きてきた道に婆ちゃんのあり方に
尊敬した。
大正うまれのその人のいつもの優しい振る舞い、
丁寧にいつも、「おやすみなさい」とお辞儀する姿、
ありがたい。
ありがたい。
婆ちゃんの姿。
婆ちゃんのこれからの道をどうか、神様見守って、導いてくださいと切に願った。
日だった。
婆ちゃんの生きてきた道を思えば、自分の道なんて、ちっぽけにまた感じた。
多くの、日本中、長崎・広島にいる戦争を知っっている、先輩方、
原爆にあった、人たち、
今、沢山話を聞いておこうと思う。
リアルな戦争・リアルな、原爆の話、
戦後から・70年、人は、すぐに忘れるんだ。
愛おしい人たちが 今ここにいるってことを、
忘れないでいよう。
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ありがとう。
ごめんね。
ゆるしてください。
あいしてます。
婆ちゃん。
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大好きだよ。大好きだよ。
大丈夫。すべてはうまくいくよ。
きっとうまくいく。
全てはうまくいく、
ありがとう。
愛を込めて、、、、、、多美より。
90歳の誕生日のお祝い
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