2015年2月16日月曜日

*婆ちゃんの歴史*

私の婆ちゃんのお話・・・・・・・・・・・

私は・小さい頃から・婆ちゃんが大好きで大好きで

・いつも婆ちゃんのお家に行くのが楽しみでならなかった。

婆ちゃんはいつも・にこにこ優しく向かいいれてくれ、いつも・甘いカルピスのミルク寒天を

作ってくれたり・豆餅を手つくりしてくれたり・編み物を教えてくれたり

・裁縫を教えてくれた初めての人だった。

婆ちゃんの家は昔・五右衛門風呂だった・だから泊りに行った日は・薪をくべて火をつけることが

すごく楽しくって・ 五右衛門風呂の底蓋をそーーっと沈めて・爺ちゃんと一緒にお風呂に入った・

婆ちゃんは・ほんとうに優しい人で・子供たちが沢山くるのを喜んで迎えてくれた・。

ある日・そんな優しい婆ちゃんを怒らせたことがあった・

婆ちゃんが用意してくれた・ふりかけごはんを「いやだ~~!!」っていって・

それでも婆ちゃんはまた・おむすびを作ってくれたのに。「いやだーーーー!!!」ってまた言った・

そして、婆ちゃんは・・・・卵かけごはんなら食べるだろうと思い・またも用意してくれた。

それなのに・「いやだ~~~~!!!」って・言った私(5歳くらいだったか・)

さすがの婆ちゃんも怒って・私を玄関から外へ出して・入ってくるな!!!と怒った。

私は。大泣き・外でずっと泣いていたけど・ その後・無言で玄関を開けてくれた・

それから・・・・その時以来(卵かけごはん)が食べれなくなった。のである。

今思えば・ほんとうにわがままな私をいつもいつも・やさしく対応してくれていた・。

あとにも先にも・婆ちゃんが怒った姿をこれ以来見てない・・・・・・


私が・20才妊娠して、周りや・家族から反対され、、、悩んで・葛藤し、泣いていた。妊婦初期。

そんなとき 婆ちゃんが「子供は宝じゃけえ・産みんさい」と言ってくれた。

その言葉が・私をすごく支えてくれて、勇気つけてくれた。

今でもずっと忘れない・言葉・。

宮古島に移住しても・・・婆ちゃんとの文通のやり取りに癒された・

いっつも・毎年毎年・ 編み物のセーーーターを送ってくれて、子供たちにと・

いっぱい沢山の愛の詰まった贈り物を送ってくれた。その贈り物は、いつも変わらない

婆ちゃん家の空気を運んでくれて、小さいころから大好きだった・

ばあちゃんの家の古い時計の音まで聞こえてくるようだった。

何年かたって、毎年来てた・だんだん手紙もこなくなって、

久々の手紙がすごく切ない話がつずられていた。胸が苦しくなった。

そして・今広島の実家で婆ちゃんと暮らしている。

私の子供たちにとっては・ヒイ婆ちゃん・ 今年90歳・

久々の婆ちゃんは・耳が遠くなっていてた。

毎日・同じ話を毎日聞いているのだけども・

婆ちゃんは話したいんだろうと・うんうんと聞いている。

婆ちゃんは、毎日・毎日・みんなのために編み物をして

みんなの穴あきの服をつくろってくれている。



今日は、婆ちゃんの歴史をじっくり聞いた日。婆ちゃんの生きた道。

「婆ちゃんの歴史」

                 ここに記す。

宇川豊子

大正14年 二月一日   (出生書はこの日に出されたらしく、
                いつ生まれたかは、婆ちゃんの母さんが忘れたらしい)


広島「こい」にて  

母 フチ‘江  父 忠男 の元に生まれる・

(ヒイ婆ちゃんとヒイ爺ちゃんは・学校の先生で恋に落ちて・両親の反対にあい・駆け落ちしたらしい)



四人姉妹三番目

あやこ・ のぶこ・ とよこ ・ちずこ

幼少時代は・安芸太田町・北広島町で過ごす。

16歳の時に父親が満州へ

16歳から~18歳まで広島市内の洋裁学校で洋裁・和裁を勉強・



19歳~ 東洋工業にて、軍事用の鉄砲を作る仕事をしていた。



20才 ろく膜・結核になり・広島市内から、北広島町へ休養しに帰った。

その8月6日・ 大朝にて、原爆を見た。

多くの焼けただれた人たちが、歩いて市内から、一日かけて実家に帰ろうと大朝にたどり着いた

が・その数日後みんな死んでいった。

その後・父忠男さんが。満州にて戦死。


終戦。

24歳~~お見合いをして・

          お爺ちゃん 等さんに出会う・


8月25日自宅にて結婚式・

25歳~~5月22日長女かおり生まれる・(私の母)

27歳~~5月13日長男たつや生まれる・

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その後は覚えてない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


って。


今に至る・


今日。夕方、晩御飯を作って、 

 
みんなで食べてる途中に婆ちゃんが涙をぽろぽろ流しながら、

「私はもう明日、帰るから、元気でおりんさいよ。 」

「長生きをしていたら、みんなに迷惑をかけるからね

もう、長く生きたから、もう十分だよ」

涙ながしながら婆ちゃんがいた・。

私も涙を流しながら、ご飯を食べた。 母さんも涙を流しながらごはんを食べた。

爺ちゃんも泣きながらご飯を食べて、 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::

無言でみんなで泣いた。 

今の婆ちゃんの状況がいろいろめぐってくる。

年をとること、死を意識すること、 介護、 身体、いろんなことがリアルに

今ここにある。

いろんな友達が原爆で死に、 父親も戦争で亡くなって、

どんどん、兄弟も 近所の人も死んでいく、、、、、、どんな気持ちなんだろうか。

いろんな気持ちが切なくって、 涙で、 ご飯がのどを通らなかった。し・

みんなで泣きながらご飯を食べたことが、なんだか、神聖な時間だった。

死ぬってことを毎日話す、こと、。

死が隣りあわせだって事実と、、

毎日毎日この何分かに、世界中で生まれてくる子供たち。

****************

いろんなリアルがあって、

だれでも、いつか、死ぬってことを受け入れる。


婆ちゃんは、私の中で、本当に神様に近い存在で、仏のような人だ。

そんな婆ちゃんの涙が、切なくって、

また改めて、一日
一日を大切に大切につむぎたい。

******

18歳から、実家を離れて、12年ぶりの同居。(居候)

車いすの父、母さん、婆ちゃん、こどもたち、との生活。

正直、楽しい事ばかりじゃなかった。

昨年は、逃げたい気持ちの方が多くをしめた、

でも、

わがままばかりの私を、文句言いながら、優しく迎えてくれた、父と母に感謝する。

世間からは、変わり者で、とっぴようしもない私は、家族の恥かもしれない。

どうにも、行き場がなくて、どこにも、自分の居場所がなくなって、

勝手に、孤独になって、いった。

家族の前では、へらへらしていた、中立の末っ子を演じたのである。

でももう、何年も毎日ずっと一人で、泣いている。悲しい、嬉しい、ありがたい、やるせない、いろん

な気持ちの涙がほとほとと流れる。



今日、婆ちゃんの涙から、

何かが、何かが、ひらいて、

両親の前で泣いた。おいおい泣いた。。

両親も泣いた。みんなで泣いた。

ありがたい涙だった。切ないけど、愛おしい涙だった。

それがすごくうれしかった。




「子供は宝じゃけえ」

その言葉を一生わすれない。




毎日、私の子供たちを優しく見守ってくれる、婆ちゃん。。。。

私の歌を、真剣に聞いてくれた、婆ちゃん、。。。



こころから、その婆ちゃんが生きてきた道に婆ちゃんのあり方に

尊敬した。



大正うまれのその人のいつもの優しい振る舞い、

丁寧にいつも、「おやすみなさい」とお辞儀する姿、




ありがたい。

ありがたい。

婆ちゃんの姿。



婆ちゃんのこれからの道をどうか、神様見守って、導いてくださいと切に願った。


日だった。


婆ちゃんの生きてきた道を思えば、自分の道なんて、ちっぽけにまた感じた。

多くの、日本中、長崎・広島にいる戦争を知っっている、先輩方、

原爆にあった、人たち、

今、沢山話を聞いておこうと思う。

リアルな戦争・リアルな、原爆の話、

戦後から・70年、人は、すぐに忘れるんだ。


愛おしい人たちが 今ここにいるってことを、

忘れないでいよう。





**************


ありがとう。

ごめんね。

ゆるしてください。

あいしてます。

婆ちゃん。


*******


大好きだよ。大好きだよ。


大丈夫。すべてはうまくいくよ。


きっとうまくいく。


全てはうまくいく、


ありがとう。




愛を込めて、、、、、、多美より。






写真



2月1日


90歳の誕生日のお祝い



































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